解説
人はどのように発達するのか。そしてどのように教育すれば優しい優れた人間となることができるのであろうか。結論から言うと、まだ科学的に正解は分かっていないという答えが正確と思われる。ここではなるべく科学的根拠に基づいた確からしいことを集めて発達原理を考察する。なお、ここでは、人間らしさとか、温かみとか、そういうあいまいなものは排除して議論したいと思う。こどもにとって親からの愛情は絶対的に必要であり人間同士の信頼や尊敬とかそういうものが良好な発達に不可欠であることは議論の余地がなく検討自体が無意味だからである。それら前提があっての上での話であることをご承知願いたい。
<ヒトは自らの遺伝子と周囲からの刺激の双方によって個性を形成する>
基本的には動物は一個の受精卵から細胞分裂による増殖と細胞分化を繰り返して個体となる。ヒトにおいては20年もすれば大人となるが、すべての大人が同一になるわけではない。成長の結果、どのような人間となるかは、遺伝子と環境によって決定される。一卵性双生児のように遺伝子が全く同一でも、育つ環境によって筋力に差が出得るし、脳の機能に差が生じ得る。言い換えれば、人間は細胞の自己増殖と分化によって自ら成長するだけでなく、それとともに環境からの刺激を受けてそれに順応したり逆に環境を変化させたりすることで各々特徴をもった個体として成立していく。よって、どんな遺伝子をもつ子であれ、環境要因による刺激とそれに対する個体の反応が人生の決定に大きく寄与するということであり、こどもがどのような環境でどのような人々に囲まれて育つかどうかは、その子の人生の重大な決定因子となる。したがって、親はこどもの成長環境を真剣に考え責任をもって選択してやらなければならない。
「ヒトは考える葦である」といったパスカルの言葉は有名であり、ヒトとは?という命題の本質を突いた答えにも聞こえる。しかし、「考える」とは一体なんなのだろうか。結論から言うと、「考える」とは見えないものを見る力であり、未だ見ぬ未来を想起することであり、それによって何か物事を達成させるものといえるだろう。なるべく普遍的に述べようとすると、「考える」とは、頭の中で物や概念を組み合わせたり変化させたりすることで、新たな物を生み出すことである。さらに、その考えが正しいかどうか、様々な面からそれについて考えなおすことで、より優れた考えに仕上がっていく。この頭の中で新たなものを創りだす力をここでは創像力と名付ける。そして、人類の脳の機能とその結果である文明や言語の軌跡をたどることで、創像力こそが人類が地球を支配するに至った根源であることが分かる。
ヒトは地球上に存在する随一の文明種族である。文明は、単純なものを積み重ねて複雑化した結果として生まれる。人はその創像力によって文明を築き上げてきた。人類以外の動物は思考を積み重ねることができない。直感的にわかりやすくいうと、人は道具のための道具を作ることができるのである。動物は木や泥を使って家を作ることができるが、人間はまずレンガを作るための仕組みを作り、それを積み重ねて強い家を作ることができる。また、人間はその創像力によって見えないものを見ることができる。たとえば、物理実験の結果として、原子は原子核とその周りを動きまわる電子によって構成されると考えられているが、その原子核と電子の実物を見たものは人類で誰一人として存在しない。DNAの二重らせん構造についても、その構造を直接みたものはおらず、ワトソンとクリックが実験的証拠を集めて創像して描いた絵なのである。そして彼らの創像物はメンデルの遺伝様式を見事に説明しており、実際の地球上生物の遺伝現象に何一つ矛盾しない形として現代分子生物学の中心に君臨し続けている。半導体からCPU、燃焼とエンジン、核と原子力発電、あらゆる文明は人間の創像力の結果である。
ヒトのヒトたる所以は創像力であり、創像力とは記憶から形成される物を組み合わせたり変化させたりすることで未だ見ぬ新たな創像物を生む力のことである。
創像とは、自分の頭の中で複数の物事や概念どうしを組み合わせることで新しい像を創出する力のことである。たとえば、青い空に虹がかかったイメージを頭の中に描くことはできるかもしれないが、それが過去の記憶を思い出しているだけであればそれは「想像」かもしれないが「創像」ではない。しかし逆に、漆黒の闇に3本の角と羽の生えたクジラが飛び、その尻尾から虹がキラキラと輝く様を描いてみるならば、そんな映像は実世界で見ることはないだろうし、その光景は明らかに創像といえるだろう。つまり、いままで見たことのない有様のものを生み出す力こそが創像力といえる。これ以降、本書を正確に読み進めていただくために、これら「単なる記憶の呼び起こし」と「創像」は明確に区別されなければならない全く別物であることを理解いただきたい。
簡単にいえば、創像とは、AとBを合わせて新たなCをつくることである。具体例を挙げれば、人と魚を組み合わせて人魚を創像するということである。ただし、現代人の多くは人魚を幼少期から目にしていることが多く、自分の頭でゼロから人魚を創像した現代人は少ないだろう。ほとんどの人は、既に出来上がった人魚を過去に見ており、自ら創像したといえるのは最初に人魚を描いた人だけである。したがって、人魚を認識できるからといって、その人が創像力があるということにはならない。そう聞くと、この世で本当に創像力ある人なんていないのではないかと思うかもしれないが、そうではない。たとえば、人魚をまだ知らないこどもが、人魚を自ら想起することができたならば、それは創像したことに近い。「絵本の世界には人魚がいて、それは人間の腰から上と魚の尻尾がつながった生き物だよ」と教えられたこどもが、我々が見たこともない人魚を描くかもしれない。この場合は創像といってよいだろう。しかし、真に人類で最初に人魚を描いた人の創像力は、姿かたちのヒントを教えられて描いた人のそれとは大きな違いがある。誰よりも最初に新しい価値のある何かを創像することはとても困難で、運や才能に恵まれることも必要だろう。しかし何よりも、自由自在な創像力が不可欠であることは疑う余地がない。
創像の逆である分析についても述べておきたい。創像が「既知のAとBを合わせて新たなCをつくる」こととしたとき、分析とは「新たに認識したCを、既知のAとBに分ける」ことである。人魚の例でいえば、人魚をみたとき、上半身と下半身で人と魚に分けることである。
これら創像と分析という二つの能力は説明してしまえば簡単だが、高度な知的活動の基礎となる部分であり、人間特有の能力と考えられている。そしてこれらの力は幼少期にしか獲得できないことが明らかになってきている。
エジソンによる電気の発明、ワトソンとクリックによるDNAの二重らせん、アインシュタインによる相対性理論など、名だたる発明家や科学者たちが人類を次の時代に導いてきた。そして、そこには彼らの圧倒的に優れた創像力と分析力が働いたことは言うまでもない。だからこそ、こどもたちが将来成長していずれ学ぶことになる数学や自然科学の勉強には、正にこの創像と分析の力が必要なのである。
創像と分析の過程をさまざまな事象や事柄について繰り返し行い慣れること、そしてその創像と分析が精密になっていくことが幼児期に育てるべき最も大切な力のひとつである。なぜなら、創像と分析の力はおよそ3歳ごろから芽生えて7歳までに完成され、さらにそれ以後に伸ばそうとしても不可能といえるほど困難だからである。これには直感的に異論があるかもしれない。私は高校生で成績が大きく伸びたとか、大人になって想像力が豊かになったとかいう人もいるだろう。しかし、ここでいう創像力と分析力は、学問や専門領域レベルの具体的な細かい創像や分析ではなく、そもそも創像や分析をする力自体をいう。こどもは経験が浅く語彙力も乏しいので、幾重にも創像を重ねた創像をすることはできないし、高度な論理パズルは解けない。しかし、絵本の読み聞かせを聞いて自ら架空の動物を創像することはできるし、植物をみて花や葉が茎でつながれ地中に向かって根を張っていることを理解できる。さらに一部の茎には産毛が生えて水滴が集まり、下の方の葉は先端が黄色がかって枯れかけていることに気づくかもしれない。ともすれば先端の若々しい芽には小さな葉がついているのに気づき、それを葉っぱの赤ちゃんと形容するかもしれない。こういった力の基礎が発現し成長するのが3歳~6歳までといわれているからこそ、この時期にどれだけ自分で考えたかによって将来のその子の創像力と分析力が決まってくると考えられる。